随筆 無口な魔物にご用心
理事 松 下 隆 好
いつもその辺を見回すと、ヤツらはウヨウヨしている。しかも毎日増殖している。
けして声を出さずに、ある者は物陰にひっそりと身を寄せ、又ある者は土中深く潜んでいる。
私もあなたも、だれでもヤツを目にしたことがある。
普段は社会のために重要な働きをしているので、あなたも、ヤツを見つけて、【地獄で仏にあった思い】を
したことがあるはず。
だからといって、うっかり扱い方を間違い、ヤツの機嫌を損ねると、まるで別人のように暴れだし、
手がつけられないほどの"魔物"に変身するのである。
なにも時ならぬ怪談話を始めようというわけではない。
以前にこういう事があった。
旧知の建設会社の若き専務が、うれい顔で事務所を訪ねてきて、「境界杭を1本、急いで復元してほしい。」
と言う。ただならぬその雰囲気に事情を訊ねると、こうである。
県道の側構改良工事を請け負った。現場にプラスチック杭があったので、家の両角から引照を取り、
その杭もろとも旧側溝を堀上げた。新しい側溝を設置し工事が完了したので、引照に基づきその杭を復元した。
ところが数日後、県道に隣接した地主が現われ、「杭の位置がおかしい、勝手に杭を抜いてしまって、
いったいどうしてくれるんだ。」と、赤鬼のような形相で噛み付いてきたと言う。
悪いことにこれだけでは収まらず、「こんなことになったのも、元はと言えば工事の指導・監督をした発注役所の
責任だ、警察に訴える。」と、役所に怒鳴り込んだと言うからたまらない。
くだんの専務は、「自分としてはきちんとやったつもりなのに、地主から訴えられ、役所からもう二度と仕事が
こないかも知れない。そんなことを考えるとまったく生きた心地がしなくて、遠路訪ねてきた。」と、塩菜のように
うなだれるのである。
たしかにその気になれば、刑法第262条の2〔境界毀損罪〕(注1)で告訴される恐れもある。
どうしたものかと思案しながら、詳しく現場の位置を訪ねると、偶然とは恐ろしいもので、私に思い当たる
節がある。
その土地はたしか、隣同志で十数年争い続け、前年にやっと裁判所で和解が成立したとのことで、
確定測量の依頼があり、その杭も私が立会い・確認し、埋設したものであった。
地主にしてみれば、和解によりやっと訪れた隣人との平和である。”キレる”のも分かる気がした。
数日後現場に行き、「以前の位置に正しく復元できるから、どうか冷静になってほしい。」と、いきり立つ地主を
なだめ復元測量をしてみると、先に専務が復元した位置と、ほとんど-緒のところにくるのである。
ところが、境界は納得したものの、こんどは「公共事業だからといって、境界杭を勝手に抜いても許されるのか。」
と、食い下がってくるのである。「今回は実害がなかったのだから、大目に見てほしい。」と、冷や汗をかきながら
説得に努めた。
やっとの事で両方の地主も納得し、事なきを得たのである。
若き専務は、額が彼の膝小僧にぶつかるくらいに、何度も頭を下げて帰っていった。
ヤツがもっと冗舌で、「おれはこれこれの深い事情がある杭だから、気を付けて扱えよ。」とでも言ってくれたら、
こんなにおお事にならなかっただろう。
まさしく”無口な魔物”である。
このときは、土地家屋調査士がその実測データーを武器に、ゴーストバスターよろしく魔物を退治できたが、
今回のようにうまく行くのはまれである。それを考えれば、【専務はむしろ運が良かった。】といえないだろうか。
ところで、その後のくだんの専務はと言えば、着工前に必ず連絡してきて、そこら辺にある木杭と言わず鋲と
言わず、調査や測量を求めて来るものだから、「【あつものに懲りてなますを吹く。】とはこのことだなあ。」と、
苦笑いしている。
いまは、事前測量だけでなく、着工前と完了後に地主の境界立会いを求め、後日のために立会い証明書をもらって
おくこと。また工事の都合上一且境界杭を撤去することの、承諾を得ておくようアドバイスしている。
読者の皆さん、【あつものに懲りる前になますを吹き。】くれぐれもヤツに取り憑かれないよう、
取り扱いには事のほかご用心を。
注1 刑法第262条の2〔境界毀損〕
境界標を損壊、移動または除去し、又は他の方法で、土地の境界を認識できないようにしたものは、
5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
注解
1,本条で保護される境界は、必ずしも真正な境界だけではなく、それまで当事者間で一応認められていた境界や、犯人みずから設置した境界も含まれる。
2,境界を不明にする行為としては、損壊・移動・除去・その他として、たとえば境界を流れる川の水流を変える、境界にしていた溝を埋めるなどがあげられる。
3,境界の認証が不明になったという結果は、絶対的である必要はない。たとえば境界が不明になったため、新たに境界を確定するのに、関係者の供述や、
図面その他の方法によらなければならないという程度であれば、十分本条が成立する。
参考文献
(自由国民社 口語六法全書6 刑法)