編集後記
広報部長 柴田健治
青葉城恋唄ではないが、正月が来たかと思ったらまた夏が来て、月日の経つのが早いことに驚かされる、ふっと気づくと今年は年男。
協会理事に就任してはや10年、いろいろあったな~・・としみじみ感じる今日この頃である。
ところで歳のせいだろうか、最近理屈っぽくなったせいか若い頃にはまったく気付かずにいたことが気になり出した。
特に「平等」という言葉、差別もなく皆等しいという意味で、日本国憲法の基本理念の一つでもある。
私たちも国の方針がそうであればこそ、努力もし税金等の負担にも応じている。
ところが人間も生き物の一つ、生まれ持っての能力の差は当然あるわけで努力しようが逆立ちしようが絶対にかなわない人間はいるのである。
「おいおい、どうしてそんな難しい公式が理解できるのよ?」
誰でも経験しているとは思うが、学生の時分、同級生のなかに一人か二人位秀才がおって、その卓越した頭脳に感服させられたものだ。
それは努力とか得意とかの前に、彼らの頭脳は私たちとは明らかに違っていた。
そういう彼らは、やはりというか当然ながら一流の大学に入って現在それなりの地位に就いている。
我国では身分にかかわらず優れている者は、生涯通してあらゆる面で優遇されるシステムが構築されている。まさに国家として、国民へ分け隔てなく平等に機会を与えているつもりなのだろう。
ところで動物の世界では、競走馬はもちろん犬・猫などのペットから家畜に至るまで、その価値判断は血統が重要な要素となっている。
人間社会においても、声に出して言う者も少なくなったが、いまだに年長者たちが家柄を重んじるのは、子育てを通じて人間も動物と同じく「遺伝子」という存在の大きさを暗に認めているからにほかならない。
裕福な家庭の子供達は、おおよそ有名大学を経てエリートの道へ進むだろう。
国公立大学なら学費も安く、官僚ともなれば天下りや高額退職金やらで濡れ手に粟である。
その点、貧困な家庭の子供達は、精々頑張っても学費の高い私立大学か専門学校、やがてしがないサラリーマンとなりリストラされて幾多の憂き目を味わう。
決して「一杯のかけそば」のような話にはならない。
このようにいくら機会均等を唱えても各個人の能力差は明白であり、それを人間だからといって同一レベルで競争させられたらたまったものではない。
結局今の社会では、固定化した一握りの者たちだけが、その恩恵にあずかれるシステムとなっており、それを平等などとは言ってほしくないのである。
この点については既に大多数の国民も気付いているようで、少子化やニート・フリータ-の問題もその表れではないかと感じる。
最近、小泉首相の改革によって格差が広がったのではないかといわれているが、その通りかもしれない。
閣僚達は、「努力した者が報われない世の中ではおかしい、一生懸命に頑張った者に褒美を与えることこそが真の平等である。」と、口をそろえて言う。
確かに一理あるかもしれないが正解とは思えない。
例えば、小さな商店と大手スーパーを同じ小売業と扱い、与えられた機会は平等とばかり競争させたらどうなるか、結果は火を見るより明かだ。
シャッター通りなどと称される町並みの存在が、自由と平等を曲解したその証である。 おおよそ、「自由」や「平等」という崇高な理念は享受する側より、それを運用する側に重責が伴うもので一塊の政治家が閃きでやれるものではない。
我が公嘱協会も、役所から受託した業務は各社員へ平等に配分する規定があるので、組織的には、何ら問題はない。
むしろ問題とされるのは、その趣旨に賛同していない調査士並びに公嘱協会に未加入の調査士の存在だ。
本来なら土地家屋調査士事務所として自由に民間と官公署の業務を受託でき得る状況ながら、巨大スーパー、公嘱協会の出現により嘱託登記の受託機会が失われている。
今後、土地家屋調査士の分野でも法人化が進み第2、第3の公嘱協会の出現に細々と調査士業を営む者や新規に目指す者にとって、その資格的魅力が失われていくことは避けられないのだろうか。
さて、私たち広報部の活動も一応今回の発刊で二年目の節目を迎えることとなりました。
本来、報道とは中立かつ公正に行なわなければならないと分ってはおりましたが、組織のなかの情報誌ゆえ少々、我田引水の感があったことを心よりお詫び申し上げます。
せめて私の編集後記くらいは、ちょっと辛めに毎々執筆したつもりです。
この二年間、発刊に向けてご尽力いただいた各理事に改めて感謝し、皆様ともお別れしたいと存じます。